翻訳コラム

2022.12.01

TOEICが葵の紋所?

私はもうかれこれ30年ぐらい翻訳で生計立ててきた個人事業主なのだが、この4年ほど翻訳のメインストリームから外れて生きている。今、「翻訳のメインストリーム」がそもそも何なのかわかりにくくなっている。2000年ごろまでは、個人翻訳者がソースクライアントから直接受注することは普通だったが、21世紀の到来とともに企業のコンプライアンス意識が急に高まり、個人との直接取引は今後差し控える―との通達が出されるようになった。でも、私が失職することはなかった。翻訳会社を介すれば済むことだったから。

マージンは引かれるが、それまで個人で対処しなければならなかった金融リスクから解放されたのが大きい。もちろん、営業にかかる金銭的・時間的コストから解放されたのも大きなメリットだった。だから、最初の10年足らずの期間を除いて、20年以上は翻訳会社のお世話になってきた、

だが、4年ほど前(実際には10年ほど前)から前回の記事でも触れたフリーランスマッチングサイトが勢力を伸ばし、翻訳会社の勢力に衰えが見え始めていた。フリーランスマッチングの斡旋業者は、翻訳会社のような歴史と定着した文化を持たない。その端的な違いは、人材の選定および維持方法にある。

前回も述べたとおり、彼らが期待するのは、TOEICのスコアだけ。だが、コンプライアンス重視の企業としては、「TOEICは翻訳の技能に直結する」という大前提でルールを確立すれば、そのルールを順守するのは当然のこと。TOEICが翻訳の技能と直接には関係がないことをいくら訴えても効き目はない。TOEICが開始したのは、1979年のことであり、最初は紙でしか成績書が送られて来なかった。TOEICは、10年前の2012年ですでに約150カ国、約700万人が受験した世界共通のテストだという。

しかし、当然のことながら、TOEICは日本語と無関係である。英日翻訳では、翻訳結果が日本語で表される。日本語が書けない人には、日英翻訳はできない。日英翻訳であろうと、原典は日本語だ。日本語が読めない人に日英翻訳はできない。

TOEICが開始したばかりの80年代から日本全国の翻訳会社は、翻訳の品質を管理・保証するためにトライアルを翻訳者に課してきた。だが、当時マイナーだったTOEICはおろか、英検ですら、翻訳選定の基準にはしていなかった。英語検定だけでは翻訳のスキルを測れないからだ。だから、旧世界の産業翻訳で育った私は、英語検定が絶対的基準となる世界がメインストリームであるとは信じられない。

考えてみれば、トライアルで品質を管理する方がはるかに合理的である。しかし、コンプライアンス志向では、日本語力と関係ないという事実を完全に無視した英語検定至上主義でも、いったんそれがルールとして定着すれば覆せなくなる。

まあしかし、旧世界の産業翻訳の活性が低い中、2022年から、私も背に腹は代えられず、フリーランスマッチングサイトで依頼を探すことが多くなった。最初は、上記のような人材選定基準に気づいていなかった。経歴は完ぺきなんですが、もう一歩及ばずでした―なんてセリフを何度聞いたか。やがて、TOEICのスコアを示していないから落とされたのだと気づく。

私は80年代の前半に東京の大学に在籍しながら英国の大学への留学を試みたが、失敗して帰国。1985年ごろから英国、豪州、アフリカや東南アジアに通算4年以上駐在し、帰国後、いろいろあって翻訳業界に入った。たしかにTOEICの対象となる留学生を目指していた時期もあるが、TOEICはまだ開始直後でマイナーな検定だった。80年代はPCが普及していなかった。TOEICを受けた記憶があるが電子記録がなく、都内で引っ越しを繰り返した学生時代、紙でもらった成績表をとっくに紛失しているし、その後、英語で不自由するどころか飯のタネにしているのに今さら探そうと思うこともなかった。

しかも、若くして入った翻訳業界では、英語検定はそこまで信用されていなかった。あんなにマイナーだったTOEICがここまで威力を持つなんて想像もできなかった。今や「葵の紋所」である。TOEIC 900点と示せば、平身低頭あなたは歓迎される。

で…も…、本当にTOEIC 900点ならあなたは翻訳の天才なのか? 翻訳会社が仕切っていた時代なら、翻訳のクオリティが合理的に管理されていて安泰だった。しかし、翻訳のスキルを管理しない仲介者が仕切っている今の翻訳は不安でいっぱいだ。AI翻訳の使用が当たり前になっていることも、さらに不安に拍車をかける。

フリーランスマッチングサイトでもAIは禁句ではなくなった。AI翻訳サービスがあれば、どんなに難解な英語(日本語)でも瞬時に対象言語(日英に限らず何語にでも)に訳せる。まるで魔法である。しかし、魔法を使う人間に統制が欠けていると、魔法が凶器になりかねない。翻訳会社を再訪する時期に来ていると思う。
(大槻 幹)

筆者プロフィール
  若い頃、欧州やアフリカで仕事上の冒険生活を送った後、まだ世の中が大らかで、
  どんぶり勘定で報酬がもらえていた1990年代から産業翻訳に携わる