翻訳コラム

2022.10.07

AI翻訳? フリーランスマッチング? 誰が品質の責任を負うのか?

コロナ禍の最中、「自動翻訳」が急激な進化を遂げている。自動翻訳と言えば、今まで、旧式の「機械翻訳」が長く支配的だった。私が産業翻訳に関りを持った1990年代初頭は、翻訳機に多額の投資をした企業が散見されたが、儲かるという売り込みだったのに投資回収ができそうにないという不満の声が飛び交っていた。個人で翻訳機を導入した個人事業主さえ知っている。彼とは懇意にしていたが、飲みの席で聞く話だと、借入金が2千万とかで、かなり悲惨だった。ハードウェアに大きく依存し、かつ閉じたシステムである旧来の機械翻訳なのである。しかし、近年、翻訳界を決定的に変えたのは、ネットワークに対して開かれた「AI翻訳」だ。

機械翻訳には、付け焼刃のガリ勉に近いものがあった。ルール通りに訳そうとする”真面目一徹”の姿勢は理解できるのだが、柔軟性に欠ける。そのため、延延と後編集(ポストエディット)に時間をかけねばならない。だが、AI翻訳はのびのびと和文や英文を綴る。

端的な例として、英語圏のMedical News Todayのニュースレターのごく一部のAI和訳をご覧に入れよう。

アセスルファムカリウムを含む人工甘味料は物議を醸しています。多くの研究者は、それらが有害である可能性があると主張しています。たとえば、代謝プロセスを混乱させ、食欲調節、体重、血糖コントロールを妨げる可能性があると主張する人もいます。いくつかの情報源はまた、人工甘味料を癌と関連付けています。しかし、国立がん研究所(NCI)によると、関連性の確固たる証拠はありません。

これは、Google翻訳で和訳したものだが、医薬分野(もともと訳者の報酬水準が高い)の英日翻訳の過去データ(AI翻訳の生命線となる)は他分野と比べて例外的に信頼性が高いと思われ、私として手を入れた箇所はほとんどない。分野によって、ばらつきがあるのだ。医薬分野の和訳はクオリティが高いが、IT分野のAI和訳は医薬よりはるかに豊富な過去訳データに恵まれているにもかかわらず、品質が低い。

現在の産業翻訳界は、AI翻訳の多大な影響にさらされている。AI以外にも、顧客が翻訳を外注する経路に革命が起きている。インターネット上に、翻訳会社などの仲介業者をバイパスして翻訳者、デザイナー、エンジニアらのフリーランスと発注者をつなぐ「フリーランスマッチング」(以下FM)サイトが栄えている。これらを利用する発注者には個人もいるが、大多数は法人である。法人の一部であっても、従来より小さな部隊が翻訳外注の仕事を割り当てられていることが多いようだ。AI翻訳を禁じている発注者もいれば、許可または推奨している発注者もいる。

彼らには多くの場合、翻訳者のスキルを管理する能力が欠落している。ゆえに、彼らが翻訳者を選定するには、経歴と資格が重視される。しかし、翻訳会社の中の人なら、英検やTOEFL スコアだけでは翻訳のスキルが測れないことをよく知っている。翻訳のスキルを知るには、トライアル(試訳)を提出してもらうのが最も確実だ。

私もFMサイトを利用しているのだが、発注者にトライアル希望と伝えてもスルーされることが多い。あちら側としたら翻訳がわからないから外注しているのに無理を言わないでくれ――と言ったところか。以前なら信頼のおける翻訳会社に任せていれば、そんなことを気にしなくてよかった。

私も駆け出し時代は、首都圏や関西の有名翻訳会社のトライアルに合格するために血の滲む努力を重ねた。また、各社ともに自社の品質の屋台骨となるのがトライアル制度だと認識していたため、トライアルの難度が重要だった。私も個人事務所で採用側に回ったとき、英検と翻訳のスキルにあまり関係がないことを目の当たりにした。

AIが許可されている場合、翻訳品質には誰が責任を負うのか。翻訳会社はバイパスされているのだから、このサプライチェーンには含まれていない。AI翻訳とFMサイトの組み合わせは危なっかしい。どこかで製造物責任級の誤訳が発生しないかひやひやしている。(大槻 幹)

筆者プロフィール
若い頃、欧州やアフリカで仕事上の冒険生活を送った後、まだ世の中が大らかで、
どんぶり勘定で報酬がもらえていた1990年代から産業翻訳に携わる